迷いなき決断

狭いトイレの中、恐る恐る見た歯ブラシの柄のような白いスティックの窓には、「陽性」を知らせる紫の縦線がくっきりと滲んでいた。
「赤ちゃんがいる!」
開店前の薄暗いおっぱいパブの店内に私は駆け出して、「やったー!」と叫んだ。

彼と私の出会いは戦後の遺物、青線の名残りである一発屋と呼ばれる風俗街で、売春婦とその辺りのママたちに金を貸すやくざな金融屋というどうしようもない組み合わせだった。
私が地元のチンピラにこの街に売り飛ばされたのはまだ高校生の時だったが、18歳になったら家を出なくてはならないという両親との約束を足りない頭で愚直に守って、この街の店に寝泊まりさせて貰っていた。
やくざな金融屋はそんな私を不憫に思い、出会ったその夜から自分の部屋に住まわせてくれた。
金融屋は死にかけていた。
持病の喘息がかなり悪化しており、吸入器を一日中何度も使用していた。
過去に1度、心臓が止まったことがある彼は、口癖のように「俺に何かあったら延命は絶対しないでくれ」と言っていた。
夜中、まともに呼吸ができない中、「看護婦を呼んでくれ。医者はだめだ、入院になってしまうから。看護婦だ、看護婦」と私を笑わせながら冗談めかして言ったりした。
ある夜、ふと目を覚ますと、隣にいるはずの彼の姿がない。
視線をずらすと彼はベッドの縁にこちらに背を向けて腰掛けていた。
闇の中にそのシルエットがぼうっと浮かび、曖昧な輪郭がまるで生きた人間に思えず、思わずぎょ、っとした。
どうしたの、と声をかけると、夢を見た、と彼は答えた。
「ばあちゃんの夢を見たんだ」
低い声で彼はそう言った。
そうなんだ。
そう言って、それから私たちは眠りについた。
翌朝、仕事に行く彼を見送った。
回し始めた洗濯機がまだ動きを止めないうちに彼は帰ってきた。
「やっぱり気になって」
どんなに体調が悪くても仕事を休んだりしなかった彼が、おばあちゃんの墓参りに行くと言う。
彼の故郷はこの部屋から3時間ほど離れた隣の県だ。
着替えを持って行ったから泊まりになるのはわかっていたけど、それから3日経っても何の連絡もなかった。
4日目の夜、知らない男がインターホンのモニターに映った。
彼の弟だという。
「兄はもう助からないので、この部屋を引き払いに来ました」
一瞬、帰ってきた彼がいたずらをしているのかと思っていた私は、弟という男の言うことがよく分からなかった。
彼は、家族の誰にも告げずに突然帰ってきたのだという。
両親も、なぜ帰ってきたのかわからなかったと言っていた。
不思議がるのも仕方がない。
そのつい数日前に、彼が私と住むこの街で両親とは会ったばかりだったのだ。
その夜、寝ている両親を起こして病院に連れて行ってくれと彼は頼んだ。
その車の中で呼吸が止まり、病院についた時にはもう脳死状態で、蘇生はしたものの長くはないと、そういう事らしかった。
彼の部屋を出ることになった私はまた宿無しになった。
その頃はやり出した寮つきのおっぱいパブは、すぐに雇ってくれた。
私は1日働いては彼の病院へ泊まり込むような日々を送り始めた。
いつしか、彼の家族とのルーティンもなんとなく出来上がっていた。
彼の父親、母親、弟と私という4人体制で、時々家族と交代して見守った。
彼は人工呼吸器をつけて、3週間ほど生きた。
「生きた」というのではないかもしれない。
心臓が動き、機械で呼吸もするが、脳がほとんど機能していないので臓器がどんどん死んでいくのがわかった。
彼の尿管から出てくるものはもはや尿ではなかった。
赤くドロドロとしたものが絶えず流れ出続けていた。
そして、痙攣が止まらなかった。ベッドごと激しく痙攣を繰り返し、意識はないはずなのに涙を流した。
「延命はしないで欲しい」
この言葉はきっと、母親も知っていたはずだった。
だけど、できなかったんだろう。
「延命をしない」という決断が。
突然の事に悲しんだり、無力さに打ちひしがれたり、みんな疲れきっていた。
ある日、とても穏やかな日があった。
痙攣もなく、呼吸も安定していて、医者は言った。
「今夜、って事はないでしょう」
今夜はお母さんをゆっくり休ませてあげよう。
そう言って、弟と母親は帰っていき、父親と私が病院に残った。
夜中過ぎ、父親が、眠っていた私を起こした。
「すまん、代わってくれ」
私は頷いて、彼の枕元に座った。
彼の顔を見つめる。
最後に、誰よりもこの人の近くにいて、世界中の誰よりこの人の身体に触れることができたの、私なんだなあ。
やがて、規則正しい機械音の中に、父親の寝息が混ざってきたのを感じ取った私は、そっと彼の耳に口を近づけた。
「お母さんはね、弟くんと家に帰ったよ。今はね、家でゆっくり眠っているよ。お父さんはね、今寝たよ。大丈夫、みんな眠っているよ。だからね、今だよ。逝ってもいいよ」
それから、顔を離して、また彼の顔を眺めた。
5分もしないうちに、彼についている機械のアラームがなり始めた。

そうやって、私は彼とお別れした。

慌ただしく、お葬式の日を迎えた。
「おばあちゃんの命日に亡くなるなんてね」
「お迎えに来たのかしらね」
そんな声が聞こえてきた。

それからしばらく月日が経って、若い私もようやく違和感に気がついた。
もしかして。
もしかして…?
コトコトと心臓が鳴った。
薬局で、妊娠の有無がわかる検査薬を購入し、まだ働いていた店のトイレで結果を待った。
みるみる陽性の線が浮かび上がった。

赤ちゃんができてる────

嬉しい!!
嬉しい!!!!!
私は興奮した。
喜びしかなかった。
迷いはなかった。
産もう。
お母さんになるんだ。
お母さんに、なる。
未来はいっぺんに輝いた。
この先の人生に、いのちがある。
ただ、生きるんじゃない。
ただ、歩くんじゃない。
転んでも何もなかったふりをしていた生き方にはさよならだ。
一歩一歩がすべてに繋がると信じる強さが、今、この瞬間、確かにある。
これから迷う時も、見失う時も、答えがある道はきっと同じ方向を指している。
私が繋いでいく。
世界は続く。
「やったあ!!!」
私はまた叫んだ。
迷いなき決断を下した、18歳の初夏だった。

#「迷い」と「決断」

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